いつから『生』を実感できなくなってしまったのだろうか・・・昔の全力疾走感はどこへ?
みなさんこんにちはADHD大学生ポコ(@pokopoko_ADHD)です
最近の深刻な悩みなのですが・・・
21歳にしてこの人生の閉塞感・・・
これはおそらく50歳の方の言う閉塞感とはまた違った意味合いなのではないかと思います。
また、鬱の時の閉塞感とも違った閉塞感
可能性とか人生の広がりとかではなく、感性の問題なのだと思うのですが、何を見ても心が動かないのです。
陽炎のように像が揺らいでいるように見えても実際は揺らいでないといったように…
学校、勉強、バイト、人間関係それら全てが全てが惰性のように思えて仕方ない…
小学生の頃のような全力疾走感は何処へ行ってしまったのでしょうか…
『死』を見れば『生』を実感できるのかなと思い、グロい画像とか見てみるのですが特に生を実感することもないのです。
今の世の中ではなかなか死を実感する機会がないため、『生を実感できない』などという戯言を言う輩が出てくるのでしょうね
(*´-ω・)ン?
もしくは可能性が大きすぎるゆえの副作用かもしれません。
死ぬことはないと同時に、生きていくために必要なお金を稼ぐ手段が多すぎる。
一昔前までは、企業に勤めて死ぬまで働くという明確なレールが存在したわけなのですが、今は良くも悪くも不安定。どんなに大きい企業でも10年後存在するかも分からないという現状。
むしろ、会社を辞めて今流行りのYouTubeやらなんやらで稼ぐことだって可能だと…
そうなってくると可能性の大きさゆえに自分の取捨選択の正しさを吟味することができなくなってしまうといことになります。
二択であれば是非がわかる(どっちがマシかわかる)と思いますが、選択肢が100や1,000あったらどうでしょうか?
何が『より』良い選択なのかの区別ができなくなってしまいます…
『なんとでもなる』『とりあえず生きていけるだろう』という漠然とした考え方が、『生』の感覚を奪っているのではないかと考えてしまいます。
まあ、ぐだぐだ考えたところで問題解決にならないというのが感性の問題ですね・・・
とりあえず時間があったので書き散らかしてみました。
もしよければ、『何をしている時に生きていると実感するか』をコメントしていただけると嬉しいです。
*恋愛系は禁止で!!
恋愛の感覚がわからないので・・・
(;゚;ω;゚;)
またね。