あけましておめでとうございます。
みなさんこんにちはADHD大学生ポコ(@pokopoko_ADHD)です。
一発目の記事が特にゴールのない描き散らかし記事になってしまいました。
もし良ければ暇つぶしに読んでください…
没個性…
個性を潰す…
発達障害当事者の声としてこんなものがある
『障害を理解していない』
『海外に比べて理解が遅い』
『結局、障害を通した色眼鏡でしか私を見てもらえない』
などなど
『理解』ってそんな簡単なことじゃないぞ!
『海外』に長期滞在したことないからわからん!
というのが私の感想なのだが、確かに言ってることはわかる…わかってしまう
なぜ日本は個性を見ない社会になったのか?
それは、日本人は見た目を気にしすぎる、重視しすぎるから結果的に個性をなくしてしまっている、見えなくなってしまったのだと思う。
最近インターンに行ってみて、ふと知ったことなのだが履歴書に顔写真を貼る日本は世界的にみたら異常だということ。(顔採用ってやつです・・)
確かに、顔を見ただけでその人に何ができるかどんな人なのかはわからない。
それに海外だと、特にアメリカだと人種差別に繋がりかねないということで顔写真は貼らないそうなのだ。
まあ、そんなことはどうでも良くて本題はその人の『個性』に見た目が入っているということ。
もっと言ってしまうと、見た目あっての中身という見方をしているということ。
見た目というのもその人のスペックの一つとして大きく評価されているのである。
ひと昔前に流行った量産型大学生、量産型女子という言葉。
失礼だとは思うが確かに量産型と言われても仕方がないと思えるほどにみんな同じ格好をしている
そして、彼ら彼女らは同じ見た目をしていることに安堵を覚えるようである。
なぜ安堵を覚えるのか?
それはみんな、周りと同じだからである。
日本が見た目に厳しいというのを知っているからファッションでみんなと差をつけられたくない、仲間外れになりたくないからではないだろうか。
一見没個性に見えるこの行動は何よりも個性を見て欲しいという行動の現れではないでしょうか?
自分自身、自分自身の内面(個性)を知って欲しいから外見で色眼鏡をかけられないようにと量産型ファッションをしているのではないでしょうか。
しかし皮肉にも、その他者に自分を知って欲しいという顕示欲を発散させようとして、外見しか写らないsnsに自撮りやら集合写真を投下するものだから量産型と揶揄されてしまう。
量産型のファッションをすることによって、本当に見てほしいのは内面であるのに…
こうやってみてみると、そもそも『個性』という言葉の概念が健常者と発達障害者の中で違うのではないか
量産型大学生に代表される人達の個性は『如何に他者と同じであるか』であり、
発達障害者の言う個性は『人とは(他者とは)違う部分』を指す。
どちらも本来の個性の意味であるが互いに偏っているので同じ個性という言葉を使っても相入れないものになってしまっているのではないでしょうか。
人と違う部分もその人の個性であり、また人と同じ部分も個性である。
どちらが正解というものではないと思いますが、日本基準では健常者の個性、海外基準では障害者の個性が意味するところとなるのではないでしょうか
日本で生活するとなると、個性の意味が如何に他者と同じであるかになってしまうので、発達障害者の意味する個性は症状、障害というワードでまとめられてしまうのだと思います。
そしてその『症状、障害』というワードにアレルギーを持つものが一定するいるため個性の把握が進まないのだと思います
とは言っても、個性の出し方や認識に関しては何も発達障害者だけを苦しめるものではなく、若者も同様に苦しめられているのではないでしょうか?
と思うのは私だけでしょうかね?
SNSを見ているとそう思えてならないです…
以上、ADHDの暇つぶし記事でした。
久々に文字打つとなかなかしんどいのでこの辺りで・・・
またね