口癖考察|私が「まあ結局は」や「どうせ」を使う理由
みなさんこんにちはADHD大学生ポコ(@pokopoko_ADHD)です
自分の口癖考察ということで今回は「まあ結局は」と「どうせ」について
同じような口癖の人多いかもしれません。私はこういった理由で使ってるかも?という理由があればコメントください。
自分以外の人の口癖やその理由に興味があります。
自分に自信がない
鬱になったり、受験に失敗して自信がなくなっているのかもしれないです…
この鬱の記事では自己肯定感が回復した的なこと言っておりますが、根深く自己嫌悪感のようなものがまだ残っているのかもしれません。
もしかしたら一生取れないのかも…
自分の限界というものを知った
自分はADHDという障害を持っていて、大学受験で自分のどうしても越えられない壁というものを知ってしまった。
「限界を知った」というと軽く聞こえてしまうかもしれませんが、感じたという表現の方が正しいかもしれません。
みんな自分に限界があることは知っているはずなのですが、どうもその限界を曖昧にしたがる、している方が心地よい・希望を持てて精神的に安定するように思えます。
なんというかどうしても越えられない壁というか能力の限界を感じてしまうと運命決定論的な思想になってしまうのでしょうか?
大富豪でジャック(11)以上がなく、革命も起こせないと・・・
運と立ち回り次第では大貧民は避けれるけど、まず大富豪・富豪にはなれない。
そうなると「いかにして最下位を免れるか」と考えてしまう。
これを人が言うところのネガティヴ思考と言うやつなのでしょう
人生もそんなものなのかと・・・
『なるようにしかならない』
持って生まれた札によって限界があるのだと
どうせ、なるようにしかならない
まあ結局、結果は決まってるのかもな…と
思えるようになってしまったのかと思います。
この口は癖良くない
上で大富豪を例にあげて悲観的なことを書いてますが、人生は大富豪ほど単純ではないように思います。
なので暫定的に知りえている自分のスペックによって人生を悲観視するべきではないと
神や霊的なものを信じているわけではないですが、言霊というものはある意味存在するかと思います。
(もちろん神や霊的なものの存在を否定もしません)
自分で自分に言い聞かせてしまっている。
ピグマリオン効果という心理学の用語があります(教育学だったかもしれません)
ガバガバリサーチで申し訳ない
「先生の生徒に対する期待によって生徒の成績が異なってくること」という内容だったような気がします。もちろん期待が大きければ成績も良くなる。
これを自分自身でやってしまっている。「どうせ」と言うことによって自分自身で自分自身の可能性を潰しているのかも・・・
ビックマウスな本田圭佑選手は自分を奮い立たせるために、敢えてインタビューで大きなことを言っているというのを聞いたことがあります。
完全に自分とは真逆の存在ですね・・・
ここまではいかなくても、「どうせ」を「きっと」とかにできれば変わってくるのでしょうか???
またね